ながたにくにおの略歴
昭和12年4月7日:東京都葛飾区に生まれました。区立金町小学校(寅さんの故郷・
柴又がすぐそば)卒業。私立本郷学園中学校から都立芝商業高校へ。このころ、雑誌
「漫画少年」の『漫画教室』(手塚治虫)に四コママンガを投稿し、そのページの定
入選者石ノ森章太郎と文通。彼の同人誌「墨汁一滴」に参加し東京在住の同人だった
赤塚不二夫と知り合いました。
高校卒業後、三ヶ月ほどのサラリーマン生活を経て、その翌年『爆発五分前』(若木書
房)でデビュー。三冊目からは曙出版で、戦記物・時代劇・青春物・野球ミステリー・シ
リーズ、現代忍者シリーズなど多数の貸し本向けマンガを描いた。
同時に日本SF創世期の同人誌「宇宙塵」(科学創作クラブ)に参加し、星新一・矢野徹・
野田宏一郎・平井和正・豊田有恒・光瀬龍らと交遊し、短編創作を続けた。
1960年代後半には、トキワ荘グループのアニメプロダクション「スタジオゼロ」に入社。
ゼロが資金稼ぎのために雑誌連載をした『オバケのQ太郎』『レインボー戦隊』などのチ
−フアシスタントをつとめた。1967年頃、新宿十二社に移転したゼロが、アニメ部門だけ
の会社になったのを機に、各メンバーのプロダクションが誕生。
古谷三敏らとフジオプロ創立に参加し、以後マネジメント:アイデア・ブレーン:作画
アシスタントをつとめる。
1970年代は、その傍ら「COM」「漫画サンデー」に盗作シリーズと称するマンガ・パロディ
を発表。その一方で、毎週月曜の夜新宿伊勢丹裏にあった「ピットイン」に通いつめ山下洋輔
トリオだけを8年間、無欠席で聞き続けた。(ミュンヘン:ドナウェッシンゲン:ベルリンと海
外コンサートツアーの追っかけもやりました。)
一方で、奥成達を中心とする詩の同人誌「gui」に参加し、約10年間同人として活動し
ました。
1980年代は、『ニャロメの数学教室』などの、入門書や
カルチャー・コミックを多数シリーズで手掛ける傍ら、赤
塚のアイデアブレーンを継続。一方、中間小説誌「オール
読物」「問題小説」で、ユーモアページのコント、マンガ
等を連載し、短期間だが「SFアドべンチャー」にSF小説を
執筆した。
この時代には、小劇場で「劇団・青い鳥」のほぼ全公演
を観たり、「スーパーカムパニイ」に入れ揚げたり、その
他多くの演劇を観ることが趣味でした。
毎日新聞社「毎日映画コンクール」アニメ部門の選定
委員としてアニメを集中して観るようにもなります。
平成に入ると、自己名義で『南方熊楠』(ダイヤモンド
社)などの、伝記や経済マンガを執筆した。
その後、コミックペーパー「日刊アスカ」の創刊に参加
し、飛鳥新社に半年通勤し「ニュース・コミック」の構成
を担当。しかし、編集企画や発行資金の弱体で、廃刊!
1999年まで3年間、「手塚治虫文化賞」(朝日新聞社)の
選考委員をつとめた。
★現在は大垣女子短期大学の「マンガ論」講師。
ここのデザイン美術科マンガ・コースです。
2000年4月より、名古屋市の椙山女学園大学と
日本工学院専門学校のレギュラー講師を兼務し
まています。椙山は文学部日本語日本文学科で
「マンガ文化論」ならびに「現代風俗文化論」
を講義中です。
★日本工学院・綜合アニメーション科では
「作品・作家研究」を受け持ち、短篇アニ
メやマンガ作品を鑑賞しつつ、「新しい発
想」を生徒がもてるような講義を目指して
います。
★2001年4月からは、これらの学校に加え、
宇都宮市にあるアート&スポーツ専門学校
でも、新設のマンガ・コースで講座を受け
持っています。
○2001年7月より、日本マンガ学会会員と
して、理事及び会誌「マンガ研究」の編集
委員もつとめることになりました。
★ 住まいは栃木県塩谷郡高根沢町です。宝積寺から
東北本線で宇都宮に出て、新幹線を乗り継いで、
名古屋へ大垣へ そして東京へと「通勤」です。
マンガのためなら、どこであろうと、遠いとは
感じません!
沖縄からでも呼んでください。
★2000年5月25日発売の古書情報誌「彷書月刊」6月号(弘隆社)
でぼくの特集が組まれました。約50ページにわたり、作品評論・
交友エッセイ・インタビューなど、盛りだくさんの記事が掲載され
ています。
ぼくが同人誌に書いてきた詩についても取り上げてくださるとい
う編集部の力の入れ方で面白い大特集です。バックナンバーでご購
読下さい。
誉以上のものがありました。先生の名に相応しい巨視的なSF作品が、いつか受賞するようにと祈っ
ています。
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