ぼくのSF小説処女作
広済堂が昭和53年度に刊行した子供向けの豆本(左右9cm天地12.5cm)の
『恐怖の館』に、ぼくがSF同人誌「宇宙塵」に書いた初のSF小説が収録されまし
た。アンソロジストはやはり同人でミステリー小説のプロ作家加納一朗さんです。
目次を御覧下さい。ぼくの大尊敬する江戸川乱歩・筒井康隆・谷川俊太郎さん
が収録されているのです!つたない『石段』という短篇は田舎の神社の石段で
起きる怪奇な事件を描いた作品です。こんな光栄は一生訪れることは有り得な
い。それでぼくにとっての重要なお宝になっています。
1974年度日本作詩大賞審査委員会に
選ばれて『氷の世界』(井上陽水)が、
LP賞を受賞しました。ぼくの作詩した
『桜三月散歩道』がこのLPに収録され
ていましたので、井上さんと同時受賞
となった際に、戴いた記念メダルです。
トキワ荘お名入り手拭
藤子不二雄さんがオリジナル製作した手拭です。
デザインとイラストは鈴木伸一さん。Tシャツも一
緒に製作しました。豊島区資料博物館で、トキワ
荘展を催したときの記念だったと思います。ちょっと
黄ばんでしまいましたが、Tシャツも大切に保管して
います。
アメコミ『ハワード・ザ・ダック』
映画の『ハワード・ザ・ダック』おぼえてるかな。
これは70年代に刊行された10セント・コミック
いや30セントか。お宝と言うほどの本ではあ
りませんが。ワルノリ・マンガのヒット作です。
谷岡ヤスジのマンガ原画
昨年、若くして亡くなられた天才谷岡ヤスジさんから記念に戴いた
マンガ原画です。これは赤塚不二夫とぼくが編集した雑誌「マンガ
No.1」に谷岡さんが寄稿してくださった作品の1ページです。
今年の「手塚治虫文化賞」は、推薦人として谷岡ヤスジさんを特別賞に推薦しました。
1961年、まだドルが自由化されていない時代、石ノ森はトキワ荘から
世界旅行へと旅立ちました。集英社の取材枠でなんとかドルを手に入れ
マニュアルだのガイドブックなど無しで飛び出したのです。
そのとき、見送りきたご両親の(下・右)心配は、いかばかりだった
でしょう。中央ネクタイ姿が石ノ森です。(中)手前で旅行カバンを提
げているのが、アシストにときどき顔を出していた長田君。シャツ姿が
石ノ森です。ネガは紛失しこのような状態で、あと数カット残されてい
るだけです。
初のアシスタント料で購入した小型カメラ!
トキワ荘へ遊びにいっていた時代、悪質な風邪が大流行したことが
ありました。マンガ家たちもそれにやられた人が多く、益子かつみ
先生が倒れ、代作の仕事が石ノ森章太郎のところに飛び込んできま
した。しかし、彼も寝込んでいたので、ネームを口述するのを赤塚
が筆記し、ぼくも呼び出されて、作画をアシストしました。
その過程で二人も発熱。タフな赤塚がフィニッシュしました。原
稿料としてぼくは6000円をもらったのです。高卒の初任給が7-8000
円の時代です。この臨時収入を殆どつぎこんで買ったのが、当時め
ずらしい「超小型」(左右66ミリ)のMamiya-super16でした。
現在でも軽快なシャッター音です。(F3.5、200分の1秒フィルター
内臓)ぼくはスパイ気分で撮影したものです。
日本初のSFポケットブック2冊!!
★昭和30年に室町書房というところから刊行され、2冊で中断してしまった
SFシリーズです。『遊星フロリナの悲劇』(アイザック・アシモフ)と
『火星の砂』(A・C・クラーク)で両方とも平井イサクの訳によるもの。
高校3年生のとき、ゾッキで売られていたのを買いました。これ持ってる
SFファンは日本に何人いるかな?
『漫画少年』の「漫画教室」(手塚治虫・選)で
投稿漫画が初めて2点一緒に入選したときに、
貰ったメダル
杉浦茂先生の原画『四次元ボーヤ』
70年代初期に赤塚不二夫が月刊誌「まんがNo.1」を
発行したとき、ぼくが編集の仕事をやりました。
杉浦先生には、このとき大変おせわになりました。
その先生も今年、天国に旅立たれました。92歳!
おなくなりになるまで、現役だったといって良いくら
い、長く活躍されました。筒井康隆さんがいわれるよ
うに、先生は世界にも稀にみる、優れたマンガ家だと
思います。グラフティの真髄!これこそマンガの心で
す。自伝の刊行を心待ちにしていたのですが、残念で
なりません。
ちばてつやさんホールインワン記念テレカ
1990年12月22日日高CC南4番ホール
159ヤードで、見事にホールインワン!
さすが、スポーツマンのちばさんです。記念の
テレカあげますと、お兄さんの研作さんから、
戴いたものです。
1978年3月3日、小学館漫画賞受賞のときに、松本
零士さんと一緒の刻印のある桝も保存してあります。